紀元前5世紀ごろの北インドの人物で仏教の開祖
学ぶことの少ない人は牛のように老いる。彼の肉は増えるが彼の知恵は増えない。
正しい教えを知らないで百年生きるよりも 正しい教えを聞いて一日生きる方がはるかにすぐれている。
多く説くからとて、その故に彼が賢者なのではない。こころおだやかに、怨むことなく、怖れることのない人、かれこそ <賢者> と呼ばれる。
「その報いが、自分には来ないだろう」と思い、善行を軽く見てはいけない。水一滴の滴りも、つもれば水瓶をあふれさせる。心ある人は、小さな善を積み重ねて、いつのまにか、福徳に満たされているのである。
愚かな人は常に名誉と利益とに苦しむ。上席を得たい、権利を得たい、利益を得たいと、常にこの欲のために苦しむ。
たとえためになることを数多く語るにしても、それを実行しないならば、その人は怠っているのである。
-牛飼いが他人の牛を数えているように。彼は修行者の部類に入らない。
-牛飼いが他人の牛を数えているように。彼は修行者の部類に入らない。
世の中は泡沫のごとしと観よ。世の中は陽炎のごとしと観よ。
苦悩を乗り越えるための聖なる道は8つの部分からできている。すなわち、正しいものの見方、正しい決意、正しい言葉、正しい行為、正しい生活、正しい努力、正しい思念、正しい瞑想である。
善をなすのを急ぎなさい。善をなすのにのろのろしていたら、心は悪を楽しむようになります。
旅に出て、もしも自分よりすぐれた者か、または自分にひとしい者にであわなかったら、むしろきっぱりと独りで行け。愚かな者を道連れにしてはならぬ。
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堅い岩が風に揺るがないように、賢い人はそしられてもほめられても心を動かさない。
貪りと怒りと愚かさを捨て、諸々のしがらみを断ち、命が尽きるのを恐れず、犀(サイ)の角のように、ただひとり歩め。
生まれを問うな、行為を問え。
おのれを抑えることと、多くしゃべらずにじっと考えることは、あらゆる束縛を断ち切るはじめである。
先ず自分を正しくととのえ、ついで他人を教えよ。そうすれば懸命な人は、煩わされて悩むことがないであろう。
過去は追ってはならない、未来は待ってはならない。ただ現在の一瞬だけを、強く生きねばならない。
沈黙しても批判され、多く語っても批判され、少し語っても批判される。この世に批判されない者はない。
「わたしは愚かである」と認められる者こそ、賢者である。
ブログ管理人のコメント
今日の自己啓発書に散見される考え方の基礎を、すでに紀元前5世紀の時点で完成していた釈迦は凄いとしか言いようがありません。周りに流されない、自己を確立した人間でありたいものです。
今日の自己啓発書に散見される考え方の基礎を、すでに紀元前5世紀の時点で完成していた釈迦は凄いとしか言いようがありません。周りに流されない、自己を確立した人間でありたいものです。
釈迦(しゃか)は、紀元前5世紀ごろの北インドの人物で仏教の開祖である。
釈迦は紀元前7世紀-紀元前5世紀頃、シャーキャ族王・シュッドーダナ(漢訳名:浄飯王 じょうぼんのう)の男子として、現在のネパールのルンビニにあたる場所で誕生。王子として裕福な生活を送っていたが、29歳で出家した。35歳で菩提樹の下で降魔成道を遂げ、悟りを開いたとされる。まもなく梵天の勧め(梵天勧請)に応じて初転法輪を巡らすなどして、釈迦は自らの覚りを人々に説いて伝道して廻った。南方伝ではヴァイシャーカ月の満月の日に80歳で入滅(死去)したと言われている。
仏教はキリスト教・イスラム教と並んで世界三大宗教の一つ(信仰のある国の数を基準にした場合)で、一般に仏陀(目覚めた人)の説いた教え、また自ら仏陀に成るための教えであるとされる。仏教の世界観は必然的に、仏教誕生の地であるネパールの世界観である輪廻と解脱の考えに基づいている。人の一生は苦であり永遠に続く輪廻の中で終わりなく苦しむことになる。その苦しみから抜け出すことが解脱であり、修行により解脱を目指すことが初期仏教の目的であった。
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