戦国時代から江戸時代前期にかけての武将・大名
金銀を用いるべき事に用いなければ、石瓦と同じである。
大将たる者は、威(威厳)というものがなければ万人を押さえつけることはできない。こしらえごとでいかにも威を身につけたように振舞ってみても、それはかえって大きな害になる。
世の中で主のために追腹(後を追って切腹すること)をするぐらいつまらぬことはない。
戦いは考え過ぎては勝機を逸する。たとえ草履と下駄とをちぐはぐに履いてでもすぐに駆け出すほどの決断。それが大切だ。
四角な器にも円い器にも、水は器に応じてはいる。
最期の勝ちを得るにはどうしたらいいかを考えよ。
秀吉様、ご運が開けましたな。天下をお取なさいませ(本能寺の変で動揺している秀吉に天下取りを進言)
人に媚びず、富貴を望まず。
まず自分の行状を正しくし、理非賞罰をはっきりさせていれば、叱ったり脅したりしなくても、自然に威は備わるものだ。
その職にふさわしくない者はすぐに処分したりするが、よく考えてみると、その役を十分に務めてくれるだろうと見たのはその主だ。目利き違いなのだから、主の罪は臣下よりもなお重い。
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神の罰より主君の罰おそるべし。主君の罰より臣下百姓の罰おそるべし
分別過ぐれば、大事の合戦は成し難し。
我が君主は天にあり。
■水五訓
自ら活動して他を動かすは水なり
障害に遭いて激し、その勢力を百倍にするは水なり
常に己れの進路を求めてやまざるは水なり
自ら潔うして他の汚れを洗い清濁併せ容るるは水なり
洋々として大洋を充たし発しては蒸気となり雲となり雨となり雪と変じ霰と化し疑っては玲瓏たる鏡となりたえるも其性を失わざるは水なり
もらった者は喜ぶであろうが、もらわぬ者は恨むであろう。
誰にやって誰にやらない、でよいというわけのものではない。
誰にやって誰にやらない、でよいというわけのものではない。
おまえは時々、部下を夏の火鉢やひでりの雨傘にしている。改めよ。
間には必ず相口(あいくち)、不相口というのがある。相口というのは、他人の心をよく知ってそれに合わせる事だ。
不相口というのは、逆らって異見を言う者をいう。
が、大切なのは不相口であって、相口の者ばかりまわりに集めたのでは、決してその者にとっていいことではない。
不相口の者が言う異見に耳を傾けるべきだ。
不相口というのは、逆らって異見を言う者をいう。
が、大切なのは不相口であって、相口の者ばかりまわりに集めたのでは、決してその者にとっていいことではない。
不相口の者が言う異見に耳を傾けるべきだ。
天下に最も多きは人なり。最も少なきも人なり。
ブログ管理人のコメント
現代の会社における部下のマネジメントでも通用する「人の使い方」の格言が多いです。また、私たちが毎日飲んでいる水の柔軟な性質も、人がより良く生きる上で大切なヒントになりそうです。
現代の会社における部下のマネジメントでも通用する「人の使い方」の格言が多いです。また、私たちが毎日飲んでいる水の柔軟な性質も、人がより良く生きる上で大切なヒントになりそうです。
黒田 孝高(くろだ よしたか)は、戦国時代から江戸時代前期にかけての武将・大名。戦国の三英傑に重用され筑前国福岡藩祖となる。キリシタン大名でもあった。
諱(実名)は初め祐隆(すけたか)、孝隆(よしたか)、のち孝高といったが、一般には通称をとった黒田 官兵衛(くろだ かんべえ)、あるいは剃髪後の号をとった黒田 如水(くろだ じょすい)として広く知られる。豊臣秀吉の側近として仕え、調略や他大名との交渉などに活躍した。竹中重治(半兵衛)と双璧をなす秀吉の参謀と評され、後世「両兵衛」「二兵衛」と並び称された。
築城の名手として知られ、居住した妻鹿城、中津城や福岡城の他、前野長康や浅野長政らと共に、姫路城、大坂城、讃岐高松城、石垣山城、名護屋城、広島城など、秀吉政権下での主要な築城に関わり、総奉行として縄張りや助言を行った。
倹約家で知られ、不要になった物は家臣に売り下げるなど、蓄財に励んだ。関ヶ原の戦い時にあれだけの速成軍を集めることができたのは、そのためである(一説によれば黒田長政の動員した兵が5,400とされ、それを上回る数であった)。一方で兵を集めた時は金を惜しまず、支度金を二度受け取ろうとする者に対しても何も言わずに笑いながら与えた。
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