日本の実業家 技術者 輸送用機器メーカー本田技研工業(通称:「ホンダ」)の創業者
私は開き直ることにした。自分はたぶん、他のどんな人よりも自分に忠実に生きてきたという自信がある。
私の最大の光栄は、一度も失敗しないことではなく、倒れるごとに起きるところにある。
日本人は、失敗ということを恐れすぎるようである。どだい、失敗を恐れて何もしないなんて人間は、最低なのである。
もったいないようだけど、捨てることが、一番巧妙な方法だね。捨てることを惜しんでいるヤツは、いつまでたってもできないね。
進歩とは反省のきびしさに正比例する。とかく他人にきびしく、自分自身に寛大なのは凡人の常だ。
芸術でも技術でも、いい仕事をするには、女のことが分かってないとダメなんじゃないかな。
何かを深く信じれば、誰でも自分の中に大きな力を見つけだし 自分を乗り越えることができる。
かけがえのない「若さ」も、それを自覚していなければ「豚に真珠」、「猫に小判」で、あってなきに等しい。「若さ」を自覚してこそ、初めて苦しみに耐え抜く勇気も、明日への活力も湧いてくる。だから私は若い人たちにまず「若さ」の価値を知るべきだと声を大にしていいたい。
会社の為に働くな。自分が犠牲になるつもりで勤めたり、物を作ったりする人間がいるはずない。だから、会社の為などと言わず、自分の為に働け。
人を動かすことのできる人は、他人の気持ちになれる人である。その代わり、他人の気持ちになれる人というのは自分が悩む。自分が悩んだことのない人は、まず人を動かすことはできない。
人類の歴史の中で本当に強い人間などいない。いるのは弱さに甘んじている人間と、強くなろうと努力している人間だけだ。
我々は、最初から苦しむ方向をとったから、あとは楽になった。真似をして楽をしたものは、その後に苦しむことになる。
人生でも、企業でも、一度貧乏とか不況とかを立派にくぐり抜いてきたものなら、そいつはどこまでも信用できる。
金なんかなくたって、心が豊かで、誰にも迷惑をかけずに、好きなことをやっていけたら、これが一番幸せな人生なんだろうな。俺は若いころから好きなこととなると無我夢中になった。だって、嫌いなことを無理してやったって仕方がないだろう。人間「得手に帆あげて」生きるのが一番良いからね。ただし、俺が好きなことばかりやってこれたのも、会社でも家庭でもいいパートナーがいたからなんだ。
息子や親せきでないと社長にしないとか、東大出でないといかんとか、企業に関係のない条件で社長を選んでいるところがある。みんなが見ているというのに、それでいいと思っているんですかね。会社は大勢が飯を食うところ、大勢の生命の源泉です。そこを忘れたら会社は潰れますよ。
人生というものは、最後まで行かぬと成功だったか失敗だったかは、にわかに断じ難いものなのである。
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独創的な新製品をつくるヒントを得ようとしたら、市場調査の効力はゼロとなる。大衆の知恵は決して創意などもっていないのである。大衆は作家ではなく、批評家なのである。
私の現在が成功というなら、私の過去はみんな失敗が土台作りをしていることにある。仕事は全部失敗の連続である。
ブログ管理人のコメント
世界に名前が知れ渡る日本のHONDA。その創始者は決して楽な道を歩んでいないと驚かされる名言ばかりです。挑戦にともなう失敗は普通だと楽観的に受け止めたいですね。
世界に名前が知れ渡る日本のHONDA。その創始者は決して楽な道を歩んでいないと驚かされる名言ばかりです。挑戦にともなう失敗は普通だと楽観的に受け止めたいですね。
本田 宗一郎(ほんだ そういちろう、1906年(明治39年)11月17日 – 1991年(平成3年)8月5日)は、日本の実業家、技術者。輸送用機器メーカー本田技研工業(通称:「ホンダ」)の創業者。
終戦直後は何も事業をせず、土地や株を売却した資金で合成酒を作ったり製塩機を作って海水から塩を作って米と交換したりして「遊んで」いたという。しかしこの時期に、苦労して買い出しをしていた妻の自転車に「エンジンをつけたら買い出しが楽になる」と思いつき、オートバイ研究が始まる。
社長を突如退任した理由は、マスキー法施行に対応する低公害エンジンを開発中の若手技術者が、本田が低公害エンジン開発について「ビッグ3と並ぶ千載一遇のチャンスだ」と発言したことに対し、「自分たちは会社のためにやっているのではない。社会のためにやっているのだ」と反発、その旨を当時専務だった河島喜好に訴え、河島からその旨を伝え聞いた本田が「いつの間にか私の発想は企業本位に立ったものになってしまっている」「自分の時代は終わった」と感じたためだという。
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