安土桃山時代から江戸時代初期にかけての武将
関東勢百万と候え、男はひとりもなく候(関東武者は百万あっても、男子は一人も居ないものだな)
さだめなき浮世にて候えば、一日さきは知らざることに候(このような不安定な世情ですから、明日のこともどうなるかはわかりません。私たちのことなどはこの世にいないものと考えてください。)
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今はこれで戦は終わり也。あとは快く戦うべし。狙うは徳川家康の首ただひとつのみ。
恩義を忘れ、私欲を貪り、人と呼べるか。(恩義を忘れて、欲を選ぶ人は、人ではない)
この信繁、十万石では不忠者にならぬが一国では不忠者になるとお思いか
いざとなれば損得を 度外視できる、その性根ー。(いざとなれば損得を 度外視できる。世のなかにそれを持つ人間ほど怖い相手はない。)
日本の半分をもらっても寝返るつもりはない
真田は日本一の兵 いにしへよりの物語にも これなき由
部下ほど難しい存在はない。
人の死すべき時至らば、潔く身を失いてこそ勇士の本意なるべし
この幸村、ただ、命を長らえているだけの処を召し出され、武士としての面目を立てて頂いた身、このご恩、土地や金子などに、到底、変えられない。
ブログ管理人のコメント
敗将ゆえにあまり多くの言葉は残されていませんが、それでも高潔な精神と勇気を感じずにはいられない言葉ばかりです。武士道を体現したかのような生き様には惚れ惚れします。
敗将ゆえにあまり多くの言葉は残されていませんが、それでも高潔な精神と勇気を感じずにはいられない言葉ばかりです。武士道を体現したかのような生き様には惚れ惚れします。
真田 信繁(さなだ のぶしげ)は、安土桃山時代から江戸時代初期にかけての武将。真田昌幸の次男。「真田幸村(さなだ ゆきむら)」の名で広く知られている。
江戸時代初期の大坂の陣で豊臣方の武将として活躍し、特に大坂夏の陣では、3500の寡兵を持って徳川家康の本陣まで攻め込み、家康を追いつめた。
後世に江戸幕府・諸大名家の各史料にその勇将振りが記録され、それらを基に軍記物や講談や小説などが創作されて、真田十勇士を従えて宿敵・徳川家康に果敢に挑む英雄的武将として語られるようになり、庶民にも広く知られる存在となった。
ちなみに、家康の本陣に攻め込まれ馬印が倒されたのは「三方ヶ原の戦い」以来二度目であり真田隊の凄まじさに家康は自,害を二度も覚悟したほどだったという話も伝わる。奇しくも家康は武田家ゆかりの武将に二度馬印を倒されたこととなる。
しかし数度に渡る突撃戦により部隊は消耗し、兵力で勝る徳川勢に追い詰められ、ついに四天王寺近くの安居神社(大阪市天王寺区)の境内で、傷つき疲れた身体を休ませていたところを松平忠直隊鉄砲組頭の西尾宗次に発見され、「わしの首を手柄にされよ」と最後の言葉を残して討ち取られた。享年49。
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