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人生はロマン。美輪明宏の名言

美輪明宏 名言格言

日本のシンガーソングライター、俳優、演出家、タレント

 

どんなトラブルが起きても微動だにしない。そんなレベルに達するまで人生の修行は続きます。弱音を吐かず覚悟を決めて。

 

相手が嘘をつこうが、靴下が臭かろうが、すべてを許し、すべてを受け入れようと思えるのが愛です。恋から抜けて愛の国まで架け橋を渡ってごらんなさい。とってもラクになりますよ。

 

人生はロマン。自分は不幸だと悩むのではなく、試練を与えられた物語の主人公だと思えば、人生をエンジョイできる。

 

人生、いくら扉をたたいても開かないことがある。その時は、神様が自分の内容を肥やすために与えてくれた時間だと思って、知識を育てたりして中身を膨らませることにあててみることね。

 

真に美しく、おしゃれであるには、右見て左見て人と自分を比べる他人指向型の根性を叩き直さなくてはいけません。そんな右向け右の全体主義はもう古いのです。本当におしゃれな人はみな自己志向型。「これは私らしい」と心底思えるものをまずひとつ身につけましょう。

 

自分は誤解されやすいと思ったら、言葉が足りているかどうか反省してみる。思いが正確に伝わるように言葉を尽くしてますか?

 

せめて自分ぐらい自分を褒めて認めてあげないと自分が救われない。自分の味方になれるのは自分だけ。

 

いつも素敵な音楽を聴いて、素敵な本を読んで、素敵な人と出会って、常にいいものに触れていると、その人が歩いているだけで自然にものすごいオーラが放たれているものです。

 

生きていれば悩み落ち込む時は必ず訪れます。だけどそれはあなたが弱いからではありません。問題に対処するノウハウを知らない、ただ世間知らずなだけ。人生経験が乏しくて、比べるものを何も持っていないから悩むのです。地球上のさまざまな知識を得る努力をすること。360度の中のたった一度の幅の中で考えていても答えなんて出ないのですから。

 

職場でも家庭でも、付き合いは気品を持って、良い人間同士でいること。君子の交わりは淡き水の如し。

 

遊びや文化は人生に欠かせない必要ムダ。芸術に親しむゆとりをもてば、心が解き放たれて楽になる。

 

この世は芸能界も、会社も、サークルも、幼稚園のPTAも成分はみな同じ。悪意、ねたみ、そねみ、ひがみでできています。それを知っているだけで人間関係はとてもラクになります。他人が発する嫌味な態度や言葉、そんなものはサラリと流して何気なくスイスイと泳いでいけるようになります。

 

先のことを考えすぎると取りこし苦労をしたり、誇大妄想に陥ったりして必ず人生に裏切られます。大切なことは一つだけ。明日の朝、もし目が覚めなくても後悔しないと思える毎日が送れればいいのです。明日があるなんて思ってはいけません。今日という日がおろそかになってしまいます。

 

おいしくて体に悪いものを食べて病気になるか、まずくても体に良いものを食べて健康でいるか。食べ物も人間関係も同じ。

 

言葉が足りないのは本を読まないから。美しい言葉に触れ素敵な表現を自分の中にストックする。意思の疎通は言葉ありき。

 

心が悪くなる事もある。しかし、そこで反省すればいい。その繰り返しで魂は向上していく。

 

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ゆがめられた情報に惑わされず、正しい自分なりの視点を持つには観音菩薩のように宇宙に突き抜けるくらい背高のっぽになって、世の中を俯瞰で見ることです。そのために必要なのが教養と冷静な知性、客観性です。教養を積み重ねられ、目線は高く、視野は広大になり、見えるものが増えていきます。比べるものも増えていくのです。

 

孤独とは物事を深く考えるチャンス。友達が多い事は必ずしも幸せではない。

 

財産、知性、知名度… 不完全な女ほど男に対する要求が多い。殿方は美しければ結構。そう言えるのが一流の女。

 

ブログ管理人のコメント
自分自身にも、他人にも、品位を保って接しようと説く姿勢には、おしゃれで優雅な数々の言葉の中にも一本の堅い芯を感じます。

 

美輪明宏 名言格言美輪 明宏(みわ あきひろ、1935年5月15日 – )は、日本のシンガーソングライター、俳優、演出家、タレント。長崎県長崎市出身。本名:丸山 明宏、幼名 臣吾(しんご)。海星中学を経て国立音楽大学附属高校中退。愛称はマルさん、美輪さん。自らの個人事務所である、オフィスミワ所属。
 
17歳のとき「丸山明宏」の名で歌手デビュー。銀座のシャンソン喫茶「銀巴里」と専属契約する。銀巴里から人気歌手が引き抜かれ、閑古鳥が鳴いたときには、髪の毛から靴まで全身紫色に染め上げて銀座を歌い歩き、店の広告塔となる。このとき「銀座に紫のお化けが出る」と話題になった。
 
22歳のとき「メケメケ」でレコードデビュー。マスコミに「神武以来の美少年」と取り上げられて全国的に名が知られるようになる。
 
その後、苦学を重ね工事現場の監督となった友人をモデルに作った「ヨイトマケの唄」を発表。この歌は、トレードマークであった派手な衣装やメイクを捨て、絣の着物一枚で唄った。それにより今までのファンが離れてしまい、再び苦難の日々となる。それでも自分の信念を曲げずに唄い通し、30歳の時にワイドショーで披露したのをきっかけに広く全国から共感を呼び、レコード発売となった。

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